奈良の旅館大正楼

大和地蔵十福霊場の伝香寺

洞ヶ峠で有名な筒井順慶を弔う寺

伝香寺は戦国時代の大名である筒井順慶法印の香華院(菩提所)として建立されました。

やすらぎの道沿いにある伝香寺。すぐ傍には大神神社摂社の率川神社が鎮座しています。JR・近鉄奈良駅より徒歩15分ほどの場所で、三条通から少し南へ曲がった所に 位置しています。筒井順慶と言えば、大和郡山城において大和国に力を及ぼした歴史上の人物として知られます。日和見の代名詞とも言われる筒井順慶ですが、洞ヶ峠の史実にも 疑問が投げかけられており、山崎の合戦の話は事実に基づいていないとする説もあります。

伝香寺由留木地蔵と裸地蔵尊のお堂

本堂左手に建つ由留木(ゆるぎ)地蔵と、重文の裸形地蔵菩薩を安置するお堂。

由留木(働)地蔵には、永正12年(1515)の刻銘があります。実に立派なお地蔵さんで、本堂のご本尊・釈迦如来坐像と「はだか地蔵尊」と親しまれる裸形地蔵菩薩の 間に立ち、双方の橋渡しをしているかのような印象です。

洞ヶ峠は京都の石清水八幡宮の南方にある峠で、大阪府枚方市との境界線に位置しています。天王山の南約7㎞にあり、1582(天正10年)の山崎の合戦において筒井順慶が ここに陣取り、どちらに与しようかと形勢を見守った故事が言い伝えられています。両者を天秤に掛け、有利な方に赴こうとして形成を観望することを洞ヶ峠と言うわけですが、 あまり嬉しくない故事によって人々の記憶に刻まれているのが筒井順慶なのかもしれません。

1571年に松永久秀が織田信長に反旗を翻した時、明智光秀と共に久秀を滅ぼして、その後の権勢を手にしたのが筒井順慶でした。山崎の合戦で最終的には豊臣秀吉に 通じた筒井順慶ですが、二股者(ふたまたもの)の俗称としてその名を歴史に残すことになります。

潔い武士椿の散る伝香寺

散り椿は奈良三名椿

伝香寺境内には、奈良三名椿の中の一つとして知られる武士(もののふ)椿が咲いていました。

花弁が一枚ずつ散ってゆく様子が、若くして没した筒井順慶の潔さに重ね合わせられます。桜の花びらの如く散る椿は、散り椿とも呼ばれ、 東大寺糊こぼし椿、百毫寺五色椿と共に奈良三名椿に名を連ねます。

武士椿(散り椿)と筒井家の五輪塔

伝香寺境内の武士椿と、筒井家の五輪塔。

武士(もののふ)とは軍人や武士のことを言うわけですが、言葉の響きにどこか儚い美しさが感じられるのか、枕詞としても使われることがあります。 「もののふ」は数が多いことから、枕詞として八十(やそ)や五十(い)に掛かります。

散り椿と称するにふさわしく、地面には無数の花弁が散っていました。

白い椿の花言葉は「申し分のない魅力」

椿は花の色によって花言葉が異なるようですが、白い椿の花言葉は Perfect Charm(申し分のない魅力)です。

桜の花に日本人の感性が凝縮しているように、伝香寺の武士椿にも同じものを感じます。

伝香寺の前身は、鑑真和上の弟子・思託(したく)律師によって開かれた実円寺です。天平宝亀年間(770~780年)に、思託律師が故国の唐を偲んで庵を結んだのが実円寺でした。
時は流れて、1585(天正13年)に筒井順慶の母芳秀(ほうしゅん)尼が若くして没した息子の菩提を弔うため、正親町(おおぎまち)天皇の勅許を賜り、 唐招提寺長老を請じて実円寺を再興しました。古額を改めて伝香寺と号し、開創の願主となった芳秀尼が堂前に椿を供えます。その椿が存続(3代目)し、今に至っています。

申し分のない魅力を解き放つ散り椿。
母から子への愛情が偲ばれ、歴史を超えた人の温もりがそこには感じられます。

拝観時間:9時~17時(入館締切16時) 休館日:月曜日

拝観料:大人300円 中・高生200円 小学生無料 ※椿の公開時期(3月下旬~4月上旬)は別途要

駐車場:20台 有料300円